英賀城(あがじょう)
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四国に住んでいた一族が、14世紀に姫路の白浜の恋のが浜
に上陸して、 |
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やがて英賀城
の城主になって、その9代めくらいが、豊臣秀吉に攻められて、最初抵抗してみたものの、いとも簡単に負けて、(英賀城が落ちたのは1580/4でした。)
夢前川沿いに逃げた英賀城の三木氏が母親の実家だと、母親は信じています。
関連ページ
河野峯吉氏の本の97ページでは、川沿いに北に逃げたのではなく、まずは、海沿いに西に逃げ、英賀の勢力圏内の那波へ落ち延びたことになっています。
2004/5/24追記 |
西木馨氏の本では、左の写真の碑の位置は本来の位置ではないそうです。
2004/5/24追記 |
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英賀城の勢力範囲は、加古川の西岸から室津までで、英賀千軒とか西の京と呼ばれるくらい繁栄していたこともあるそうです。
2004/5/24追記 |
播磨灘物語などで、黒田官兵衛の祖先がいた場所として岡山の福岡千軒は出てきた記憶があったのですが、英賀千軒は知りませんでした。他のところでは、江戸時代にそう呼ばれたということなので、13世紀から16世紀の間で
英賀千軒と呼ばれていたのだとすれば、ちょっとすごいかも。
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fresheye 2004/5/25 ヒット数 |
草戸千軒 |
広島県福山市 |
718 |
奈良井千軒 |
長野県 |
115 |
山鹿千軒 |
山鹿市 |
47 |
芦屋千軒 |
福岡県 |
17 |
有田千軒 |
佐賀県 |
9 |
福岡千軒 |
岡山 |
6 |
関千軒 |
下関市 |
5 |
英賀千軒 |
兵庫県姫路市 |
5 |
今井千軒 |
橿原市 |
4 |
2004/5/25追記
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英賀城関連のことを『播州真宗年表(第一版)』から少し拾ってみました。
1 三木通近 1380
姫路市白浜 恋のが浜城に入る(「播州真宗年表」では1430
姫路市恋のが浜城に入るとなっていますが、これは、「赤松氏・三木氏の文献と研究」では「英城日記」の記述の間違いで、康暦2年 1380だということになっています。)
2 三木近重
3 三木通重
4 三木通武 1441/11 英賀城に入る
5 三木通安 1478 入道し善海と号す。
三木通安という人も養子なわけですが、平家物語11巻に登場する伊予の国の新居橘四郎というという人の子孫だそうです。
新居姓からは、越智、高市、河野姓が派生しているそうです。
2004/5/24追記 |
6 三木通規 宗教に凝る
通矩は「播磨鏡」の誤字らしい
『播磨国英賀城報恩記資料集成』河野峯吉著1977では、『赤松氏・三木市の文献と研究』について、『播州英城報恩記』を出る資料はほとんどなく、名前に通が入っているから、広畑天満宮を本家筋とするなんて笑止だ、播磨鏡にけちつけているがそれどころでない大間違いだとけちょんけちょんにけなしてありました。『赤松氏・三木市の文献と研究』の方が小説風になっているので読みやすくはあったのですが。
通規は、雁南壮大井三樹氏からの養子で、本願寺の蓮如の母もその家から来ているそうです。英賀城が、本願寺に入れ込むのは、単に親戚だからだったからかも知れません。規は、本願寺では空善という名前をもらっているそうです。
2004/5/24追記 |
空善という人は、播磨六坊の1つ光徳寺を作った人と同じ名前ですね。別の人を混同しているのかも知れません。蓮如の母の親戚だったせいで、晩年に蓮如の弟子になり、光徳寺を開いたというのもありえるとは思いますが、城主が庇護したというのを僕か著者が読み間違ったという可能性も感じます。(図書館で読んだので、再確認は遅れます。)
2004/5/25追記 |
1480 市庭館建立
1496 以降 英城日記に真宗の記載
1499/1 飾磨薬師寺顕明に帰依
7 三木通秀
8 三木通明
9 三木通秋 1570
顕如上人、本徳寺を通して三木通秋に出兵を依頼
1580/4 秀吉に負けて九州に逃げるが2年後に許されて戻ってくる

英賀神社
あと、英賀神社のそばに、英賀城の碑が建っているわけですが、西木馨という人の本によれば、本当の位置は違っているそうです。
司馬遼太郎
『播磨の郷土文献 目録と解題(上)』 寺脇 弘光 著の185ページに司馬遼太郎の『播磨灘物語』が出てきてその中で家系情報が少しありました。
・・・この作家の家系が播磨の出であることはあまり知られていない。司馬遼太郎は祖父惣八の代までは飾西郡広村(現姫路市広畑区)の中型百姓で、さらに先祖をたどると、羽柴秀吉によって滅ぼされた英賀城の武士団の一家宇野氏で、英賀城の落城後に広村に土着、明治以降は福田姓を名乗り、祖父の代に大阪にでたものである。 |
『家系のしらべ方』丸山浩一著の中にも、司馬遼太郎の『歴史と小説』の中に、菩提寺の玉垣に祖父惣八の名前を見つけるシーンが出てきたことが書いてありました。
『週刊朝日199/1/22号』の49ページ「司馬遼太郎が語る日本 第125回-湯川秀樹さんとの対話」というのがあったのですが、その中で英賀城が出てきました。引用します。
湯川:...ときにあなたのご郷里はどうなんです? 司馬:私の祖父は明治4年に大阪に出てきた人で、それまでは姫路の「広(ひろ)」という所に住んでいました。戦国の祖先は、そのあたりに「英賀(あが)」という城があったのですが、そこの小さな家来でした。
英賀は秀吉が播州に来たときに、鎧袖一触でつぶれてしまう。私は『播磨灘物語』という小説を書いたとき、そのことには触れなかったんです。これは自分の家に関係があるから書かないでおこうと思ったのですが、投書が来ましてね。「どうして英賀城のことを書かないのか、あなたはそれを知らないのか」。腹が立って、「それは俺の家のことだから書かないんだ。それは汚職みたいなものだ」と返事を書いたことがあります。本来、播州です。
湯川:そうなんですか。 |
司馬遼太郎の祖父の名前が入った玉垣の縁で、司馬遼太郎も、広畑天満宮が本家筋にあたるという説を採っているのでしょうね。そのせいで、地元にそっけない描き方という可能性もありうるのでは?
2004/5/24追記 |

柳田國男
福崎町の三木家は、英賀城落城後、飾磨津→大黒町→福崎町と移ったそうなのですが、江戸時代は大庄屋をつとめ、12歳の頃の柳田國男がその家の蔵書を読みふけったことで有名です。

英賀城城主の墓は残っていない
『播州真宗年表(第一版)』によれば宝林寺に三木家の9代目通秋が葬られたそうなので、墓があって、家紋がついていないかそのうち見に行こうと思います。(この寺は赤松氏関連の寺みたいで、間違いみたいです。「赤松氏・三木氏の文献と研究」では、別の寺の名前が上げてありなおかつ、現在は墓が残っていないそうです。)
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『播州英城報恩記』を姫路の城内図書館のリファレンス室で読んだのですが、その103ページに英賀城主歴代の墓があった山崎山廟を寂円連枝が取り壊して、本徳寺廟所としてしまった。残念だという風に書いてありました。寂円というのは、本徳寺の家系に連なる女性です。英賀には1000軒の家があったということで、それらの家の墓もすべて取り壊されてしまった様です。
先日の土曜日、姫路城での灘のけんか祭りのイベントを見に行った際、下山里という所からしばらく見ていたのですが、姫路城には、墓石がいっぱい使われているようです。下山里のは12世紀の分と書いてありますが、多分、英賀城主の墓石も、姫路城の石垣に使われてしまったのでしょう。
なお、江戸時代になってから、英賀の元住人の願いで法寿寺が作られたそうです。検索しても見つかりませんでした。
2004/5/24追記 |
移転先
英賀城が落ちて、寺社はあちこちばらばらになり(いったん、亀山本願寺のところに移転し、その後に別の場所に移ったりということもあるようです。)商家は龍野吉田町に、農家は飾磨区清水に移転させられたということの様です。『英賀岩繋城復元模型図集』に載っていました。町名小地名辞典みたいなものの飾磨区清水の項にも載っていました。
2004/5/24追記
英賀郷土史の歴史
河野峯吉氏の本に載っていた分です。でも、姫路の図書館にはない本ばかりでした。
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1.三木見寿(木場)
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2.三木通資(船場)
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3.三木伊助=三木東水軒 『英賀事略記』
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3のコピー 亀屋 三木太八郎(広畑)『英賀日記』文化8年
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3のコピー 『播州英城日記』天正11年
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4.三木文蔵『播陽英賀事略記』
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2004/5/24追記

宮本伊織
「宮本武蔵の真実」小島英熙著 ちくま新書372 の88ページに、森銑三を批判を加えながら引用してあるのですが、
{
『播磨鑑』には、伊織は播磨国印南郡米田村の生れで、父は元三木家の武士で、名を甚兵衛といった。母は加東郡垂井荘宮脇村の人だったとしてある。伊織の姻戚が米田村にあること、伊織が後に、その氏神泊大明神の社殿その他を建立したこと、
}
という様な部分があります。別所氏の三木城と三木家の英賀城の混乱から来ている可能性もあると思いますが、宮本武蔵の兄の息子が伊織なので、三木家と宮本武蔵にも少しくらい関係あるのかも知れません。
と思ったのですが、播磨鑑の引用の間違いで、やはり三木城の方でした。
円光寺
英賀城が滅んで、寺社や商店が、秀吉の姫路城の近くに移転させられたというのがあって、その例を、見つけてどこかのページからリンクしておいたはずなのですが、自分で見つけることができません。本徳寺のほかにもあったのですが。
宮本武蔵が龍野で立ち寄った寺として登場する円光寺の場合は、姫路城のそばへの移転ではなく、龍野へ移転であったわけですが。英賀城関連ということで、ここにメモ。
外部リンク
2003/7/11追記 |

先日テレビを見ていたら、厳島神社のお祭りを紹介していました。対岸の町から30人くらいの漕ぎ手のいる船を漕いで厳島神社に到着し、神社に囲まれた狭い正方形の海で3周回転してまた戻っていくという様な内容でした。
その中で、広島県 呉市 阿賀という地名が出てきたので、読みが「あが」の地名を検索してみました。
鳥取県 西伯郡南部町 阿賀 |
新潟県 東蒲原郡阿賀町 |
兵庫県 姫路市 飾磨区英賀 |
広島県 呉市 阿賀 |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E8%B3%80%E9%83%A1 過去には岡山県阿賀郡という地名もあったのですね。
古代には英賀と書いたみたいだし
古代史の吉備の国が江戸時代より広くて播磨を含んでいたということでしょうか。方向は逆ですが、古代史でどこからどこまでが印南か? という問題も思い出します。姫路までが印南だったのではないか? という問題です。現在、中国地方と近畿地方の境目に播磨があるように、古代も吉備と大和の境界線上にいたということですね。
2007/10/5追記
関連ページ
外部リンク
2008/01/13 更新 |