淳心学院無線部
僕は20回卒業生で、無線部に属していました。無線部だけが、アンテナの修理などのために、屋上に登ることができるのでした。3階建ての校舎のフェンスのない屋上の縁を、走り回ったりしていた記憶が、時々よみがえって、怖くなります。現在、無線部は、電子部に変わってしまっています。淳心の無線部のコールサインは、JA3YJHでした。僕のコールサインは、JE3GXXでしたが、廃局になっています。
個人では50MHzのAM 3Wのトランシーバーを作りました。無線部ではTC-5001という様な名前のLSIを使って周波数カウンターを作りました。
思い出しネタの追記です。
50MHzのトランシーバーは作ったものの、電源のトランスの電圧が低くて、電源からのノイズが酷くて、交信はできたものの、ノイズが酷くて聞き取りにくいと言われてしまって、原因に思い当たったのは、しばらくしてからなので、解決もしないままそれっきり交信していません。近所のテレビにまで妨害電波が飛んでしまったようです。
あと、アンテナはキューピカルクワッドアンテナというものを作りました。理由はアルミ製のものより安上がりだからということです。温室用のグラスファイバー棒をアルミ管の切れ端で束ねてX字にしてX字の周りにコードでループアンテナを張り、それを1素子として、2素子だったか3素子だったかのアンテナを作りました。
グラスファイバー棒をどこで買えばよいか分からずに、物知りだから知っているはずだという父親の説に従って、それまで特に話したこともない近所の井上さんのおじいさんを訪ねて、どこで売っているか聞いた様なかすかな記憶があります。それから聞いた店に買いに行ったのですが、それは店と言うより、倉庫という感じで、区画整理されていない田んぼの中にポツンと存在していました。あれ? グラスファイバー棒を買ったのは、種苗店で、田んぼの中の倉庫は、アンテナ用の鉄パイプを買いに行ったのかも知れません。
その倉庫で対応してくれた人が、荒くれ者の感じだったのですが、小学校の時の同級生のお父さんだったそうです。でも、今では、誰のお父さんだったのか思い出せません。今思えば、息子の評判でも聞きたかったのだと思うのですが、僕は警戒心を解かないまま、さっさと買い物を終えて帰りたいという感じだったはずです。
2008/8/1追記 |

顧問の田中先生 大学に入った当時は、井の頭線に乗ると、アントニオ猪木を思い出し、アントニオ猪木を思い出すと、田中先生を思い出したりしていました。以前、同窓会の時には、メーカーに進んだ岡山大学時代の同級生が、部長とかなっていて、教師ではなく、メーカーに進めばよかったみたいな話をしていました。
外部リンク
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NHK|わたしが子どもだったころ
偶然、『アニメ監督・富野由悠季』(2008年6月11日(水)放送 再放送:6月15日(日)、6月27日(金))の回を見たのですが、戦争中は与圧服の開発をしていてその後中学の理科の先生という監督の父親の写真が登場し、それが物理の田中先生に似ていました。(単に、後年同窓会の際に見たおでこの後退パターンが似ていただけなのかも知れないのですが。)
授業で話が逸れて、学生結婚した話が出てその照れ隠しという文脈だったかと思うのですが、(あるいはその件は噂で知っていたのか?)自分に限界を感じたから、次世代に賭けたのさみたいな発言を思い出しました。関連して、カルシウム不足で精神が不安定になるみたいな子育ての話題とかも思い出します。 |
2008/6/12追記 |
15 松本欣久さん 1998/8に亡くなったそうです。どういうことなのでしょう? インターネットを検索すると、
 | 長岡市医師会会員向けお知らせコーナー (http://www.nttl-net.ne.jp/3jakudama/info2.html) や会員消息
(http://www.nttl-net.ne.jp/3jakudama/Kaiin.html) に「立川綜合病院麻酔科 松本欣久先生(43) 平成10年8月31日ご逝去」となっていました。 |
 | ぼんじゅ〜る (http://www.nttl-net.ne.jp/3jakudama/kaihou10.html#oguma)
同僚医師たちによる追悼文が載っていました。胃癌だったそうです。 |
 | 富山医薬大病院手術部
1997年学術活動状況 |
姫路の陸上競技場で灰色のテープで作ったナンバーカードを付けて、最初から飛び出して、目立ってみんなの喝采を浴びて先頭を走っていたのに途中で、失速してしまった松本さんの記憶が、なんだか不吉な予兆だったみたいに思えてしまいます。確か、当時、クラス委員でしたよね。お寺の長男で、いつもにこやかで、苦労人だから人柄が良いみたいに自分で言っていた気がします。松本さんに関する記憶を修復するWebページでも作りたいと思います。
15 若松さん
15
柏野さん 高校の理科の先生をしていて実験の授業について公演したりもしているみたいです。テニス部顧問でもあるそうです。お子さんは中学生の女の子に、小学3年生の男の子の二人だそうです。(99/1/13)
16 森さん 東大医学部から国立身体障害者リハビリテーションセンターに98/4に移って聴覚に関する研究をしていて、日経サイエンス98/9に養老孟司氏との対談記事が載っていました。
 | 解体新ショー 音源の上下前後を判別するのに耳のひだが関係しているという話で森さんが登場しました。9/20にBS2と総合で再放送があるようです。
2007/9/15 |
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17 清水敏聖さん
長銀に勤めていて、香港に住んでいるそうです。長銀が破綻してどうしているのでしょう?
18 中村裕吉さん (http://www.geocities.com/Eureka/Plaza/9849/) 94年からベネズエラに行っていました。見晴らしの良い高台に住んで、物価も安く気候も良いということで、満足げでした。でも、ギアナ高原が近くとか、ゴルフ場に鰐がいるとかいうのは、やはり秘境だと思います。中村さんのページにはゴルフのスイングの映像がありました。1999/4には日本に戻ってくるそうです。日本に戻って2週間で今度はエジプトにいるというメールが届きました。同封の画像では、ピラミッドの前で、日焼けした中村さんが立っていました。(99/5)
2002年に結婚してポートアイランドに新居。でもすぐにまた海外の様です。(2003/4/29追記)
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中村さん経由の知り合いに山本さん (http://yukei.sbckobe.co.jp/index.html) がいます。97年の初め頃、わざわざソフトピアまでやってきて、もらったのでした。 |
19
20 僕
20
小南 脳外科医をしているそうです。日大から千葉北総合病院に移ったそうです。1999/4から講師もすると年賀状にありました。
20 浦野 Xingにいるはずです。
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22 児島宏明君
http://www.etl.go.jp:8080/etl/onsei/People/hkojima/ (96/1/10の夜に、つくばで隕石を拾ったのだそうです。児島君の披露宴で僕は祝辞を述べたのですが、最近、コダックのCMを見るたびに、僕のスピーチは、長すぎたと反省しきりです。)赤穂の児島姓にはお米屋が多いそうです。1997/11に第1子哲平くんが生まれました。
淳心祭の時の知り合いからメールが届いて、長年のなぞが解けたのですが、そこに、児島君の友達のもう一人の松岡君がからんでいたのでした。
関連ページ
2003/4/22追記 |
関連ページ
22 浅野君(多分、浅野内匠頭と共通の祖先を持っている) 日産に勤めています。日産もホンダみたいなロボットの研究をしているそうです。第1子は由貴ちゃんで1999/4に第二子の予定だそうです。
22 真殿君 東芝に勤めていて九州にいます。
22 石井君
東大にいたので、井の頭線の駒場東大前のホームで1度会ったことがあります。
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24 西山隆也君(http://www.sionsystems.co.jp/linus/) (会社で、Mac8500/120一式を買ったそうです。(96/5))
Pnambic Page 独立して、組み込み系の開発をしているそうです。2003/10/30追記
24 朝生太郎君 富士通に勤めています。もうすぐ3歳の女の子と1歳の男の子がいるそうです。(99/1/14)
2? 高井君 森さんと同じ東大医学部に行っていたそうです。
2? 岩澤君 リクルートに勤めていて4才の男の子と2才の女の子がいるそうです。(99/1/13)

スポラディックE層
96/1/21 16:00のテレビ東京「星空と話した男−天文から地震予知」という番組を見ていたら、FMの放送局の電波が電離層で跳ね返ってきたものを受信して、その変化から3日程後の地震の予知が90%の確率でできるという話をしていました。学者が短波にこだわっていたのを、民間の天文研究者が見つけたのだそうです。ジャンクの無線機でやっている様な研究で、その水準に達しているので、もっと大々的に追求すればもっと精度があがりそうです。
昔々、無線部で、50MHzに出ていた頃、希に生じる電離層の種類で、スポラディックE層ができると、遠くに飛んだりするというのがありましたが、どういう時に、スポラディックE層ができるのか?
と考えたことがありませんでした。不覚です。
地震予報に挑むPHP新書
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串田嘉男氏の本{「地震予報に挑む」
ISBN4-569-61258-X
\740E}も買って読み、ここからリンクも貼っていたはずなのですが、HDDクラッシュで古いバージョンになって消えているのでしょう。 外部リンク
2003/9/9追記 |
関連ページ
2004/1/19追記 |

昨夜、TVで『耳をすませば』を見たら夢に出てきました。その夢の中では中学3年生の僕も小説を書いたことになっていたのですが、実際にはそんなことはなく、中学の間は、アマチュア無線の免許、自作の無線機、CMOSを使った周波数カウンターを作っただけでした。それに、ありものの回路図をつなぎあわせただけで、特別な設計ではありません。
中学3年頃、ぬれねずみで帰っていて、郵便局のあたりからぬれねずみを看過できなかった賢明の女の人に傘に入れてもらって山陽電車の駅まで一緒に歩いて帰ったことがあります。(その後、1年程経った頃でしょうか、帰り道、その女の人が、古都古寺研の部長(記憶の混濁かも単に似ている人だったかも、そもそも古都古寺研があったのは大学の時かな? 学館にあったサークルのまとめ役をしていた古都古寺研の人と、高校の時の文系サークルのまとめ役をしていたKという人がごっちゃになっています。)と今では和服の店になってしまった御幸通りの本屋の雑誌売り場にいるのをみかけてちょっとした失意を味わったのでした。)
2004/3/13追記 |
関連ページ
外部リンク
 | I.S.D. WebSite
無線部は無くなって電子部に変わったのですが、電子部の独自ドメインのサイトがありました。 |
 | 淳心学院鉄道研究部のblog グーグルアラートで出てきました。鉄研の印象はあまりありません。中村さんの同級生で、微妙に駅員の制服風にアレンジされている制服を着ている人がいたような気がするのですが、それくらいです。石原君も鉄研だったような気がしていたけれど、部室が近かっただけで、囲碁研でした。あと、雀部先生が鉄道模型趣味があったのを思い出したので顧問だったかなと思ったけれど、よく考えると、後藤君の機械体操部の顧問だったし。あと、清水さんの学年の写真部の部長が多趣味だったので印象が混じっているのですが、これも部室の位置のせいかも知れません。
2008/6/16追記 |
08/08/01更新 |