[HOME][古代史]

邪馬台国西播磨説

御津町の綾部山39号墳が発端の様ですが、あっても良いのにと思っていた邪馬台国西播磨説が形成されつつある様です。うわさとして聞いただけなので、内容は知らないのですが、

今朝思いついたのは山彦がもらった玉で海彦を苦しめたのは、砂鉄を掘ることで下流に多量の土砂が流れてしまう点を象徴しているという着想から、下の図式だったのですが、少し考えるだけで矛盾が出てきてしまいました。

  海幸彦、山幸彦    
アメノヌボコ 海幸彦 イザナギイザナミによる国産みの際に、かき混ぜるのに使われたホコの名前 播磨灘の周辺の海洋民族の同盟
アメノヒボコ 山幸彦 高天原から、播磨の宍粟郡に白鷺となって飛んできた金屋子神が現在出雲で祭られている。 新羅からの製鉄集団
アメノヒボコは結局宍粟郡を越えてあちこち行って、出石に定着してしまうわけですが、陰陽道の中心地になったのも質の良い砂鉄が得られたせいかも知れません。
あれ? 既存の伊和神社とかの方が製鉄に近くて、アメノヒボコは対立勢力でしたっけ? でも後から来た製鉄集団だったというだけのことかも知れません。あるいは、父と子の対立に過ぎないかも。
「やばたい」
現在まで続く天皇家の越王朝の前に一時的に存在した播磨王朝を支えたのが、邪馬台国の残存勢力かも知れません。
邪馬台国の向こうの対立勢力狗奴国が、大和になります。
ヤマトタケルは加古川生まれ

2004/4/27追記

 姫路市にも山戸という地名がある。女性が踏み切り内で列車に轢かれる事故のニュースで気づいたのですが、
検索ページ 国土地理院 地図閲覧サービス

このサイトで全国で24件見つかる山戸の地名が、姫路にもありました。むしろ、宇佐説の山戸という地名は検索結果の中には出てきません。

山戸にしろ、山門にしろ、登山口という様な意味ですかね?

2004/9/25 追記

 

文化庁の発掘に関する費用負担

さっき、MXテレビのぐるぐるジャポンという番組を見ていたら、モースの大森貝塚の話をしていて、大森貝塚の場合には50円の発掘補償金を出したが現在は、土地の所有者などの原因者が発掘費用を負担する制度になっている ので、多くの遺跡が秘密裏に埋め戻されたり破壊されているという風に説明していました。

しかし、Webを検索してみると、それは大規模事業者に対してだけで、個人の場合はそうではないので、実際には文化庁が90%を負担しているという風なことが書いてありました。MXTVを始め、このことを知らない 人が多くて、発掘費用を負担するのがいやで埋めてしまう人がいそうな気がします。邪馬台国の遺跡は無理にしても、もっと古代遺跡がでてきて欲しいので、そんな誤解は広めないで欲しいものです。

文化庁のサイトを発掘費用で検索したら、遺跡発掘についてのページは見つからず、新人発掘の費用を助成するページしか出てきませんでした。

昔僕がソフトピアジャパンセンターにいた当時西側の空き地では発掘のせいで、建物の建設予定が2年くらい遅れるということで、僕が入居していた間、ほとんど空き地のままでした。発掘自体に2年かかるわけではなくて、発掘すべき場所が多すぎて順番待ちになっていて遅れるのでしょうが、この期間を短縮するために 発掘作業員を増やすとかすべきですね。

淳心学院の立替工事の場合も文化庁の許可がなかなか取れないとか、秀吉時代の姫路城は東に大手門があって、大手門の両脇の屋敷跡が出てきたとかいうことでした。

もしかしたら、文化庁も、東京に集中する映画製作会社には助成するけれど、文化財保護を理由に開発の計画を狂わせることによって、関西の長期低落傾向を推進しているのかも。中国の文化大革命当時、3世代前まで調べて搾取階級が見つかると、学校にも行けなかったというのを昨日読んだのですが、似た様な政策ですね。

2004/5/20追記

NIKKEI NET:地域経済ニュース {京都市、文化財発掘調査に最大5000万円助成・企業誘致で新制度 2007/2/23} 京都が最初ではなくて、少し前にも似たニュースがあった気がします。

2007/2/23追記

綾部山39号墳が、前方後円でも四隅突出型古墳でもなく8角形という特別な形で、なおかつ古墳としては最も古いくらいらしいというのはともかくとして、他の古墳と比べると直径が12mくらいで、小さいというのが残念ですね。沖縄を起源として、大和へ移動した勢力があったというWeb上で見た説だと、卑弥呼の後継者台与は愛媛の勢力の支援を受けたことになっていたのですが、綾部山39号墳の位置づけは、播磨灘の周りの勢力が大和に移動して、古墳を作ることが始まったという感じなのかも知れません。初期とは言え、はしはか古墳とくらべてそんなに古いわけではないので苦しいですが。

2004/4/29追記

『楽浪遺物』という番組2004/5/9 0:05-1:00をテレビ埼玉でたまたま見ました。(途中からしか見ていません。) この番組では楽浪郡(現在の平壌)での発掘の様子をみることができました。北朝鮮では中国の支配下にある楽浪郡ではなく、その時代楽浪国があったという独自の歴史になっているために、見せてくれた遺物には中国と共通のものは省かれていたという様なことも言っていましたが、現在のように険悪な状態になっているのに、よく取材ができたものだと思います。(取材自体は2001か2002ごろだったようですが)

最近読んだ本では、四隅突出型方墳のことを極めて特異なデザインで、まるで宇宙人の墓のようだとか書いてあったのですが、番組中では、前方後円墳につながるデザインと言っていました。人によって180度異なる意見が存在するわけで、全く混乱してしまいます。

将来、播磨で大きな古墳が見つかって、邪馬台国当時の鏡が出てくれば、邪馬台国播磨説になってもよいことにもなりそうです。

外部リンク

研究紹介【岡村 秀典】 番組内でこの人が鏡の製作年代が20年〜30年刻みで読み取ることができるということで出てきました。そして、北九州で出土した鏡の製作年代別のピークは紀元前で、卑弥呼の時代にはすでに北九州では鏡が減り大和に中心が移っているという様な説明でした。証拠をもとに、邪馬台国大和説を唱えている気がします。

2004/5/9追記

BunCulに環播磨灘連合が邪馬台国を支えたという説

『Ban Cul』2006秋号の70ページから中元孝迪という人が、「阿・讃・播−海の道が紡ぐ“平和勢力”/卑弥呼支えた「環・播磨灘連合」/邪馬台国誕生劇、新たな展開へ」という文章を書いています。播磨の自尊心をくすぐる文章を書き続けている人で、古代史の人ではないのですが、綾部山39号墳が、奈良・纏向遺跡にあるホノケ山古墳に似ているということから、播磨灘連合が卑弥呼を擁立し、大和で新政権を樹立し、播磨から大和に移動して政権を補佐した人物が播磨と同じ形式でホノケ山古墳に埋葬されているというのが自然だという説を有力だとしています。

2006・8・22の読売新聞にも、近畿や瀬戸内東部説が有力になったと徳島県鳴門市萩原2号墳の調査結果から述べていました。なおこの新聞記事では、埋葬施設は二重構造となっているのですが、中元孝迪氏の記事では、{朱塗りの木棺、平石を積み重ねた石棺、河原の丸石}の3重構造ということになっていました。

読売新聞の記事で似ているとされている例

奈良県桜井市のホケノ山古墳
徳島県鳴門市の萩原2号墓
徳島県鳴門市の萩原1号墓
兵庫県たつの市の綾部山39号墓
京都府南丹市の黒田古墳
岡山県総社市の宮山古墳
兵庫県加古川市の西条52号墳

中元氏の記事でホノケ山古墳と綾部山39号墓とが似ているとされる特徴

石囲い3重構造の埋葬部
コウヤ槙を用いた木棺
破砕された画文帯獣鏡
前方後円墳の祖形とされる突出部の存在

中元氏の記事に載っている参考文献

綾部山39号墓発掘調査報告書 (御津町立室津海駅館で頒布)
綾部山39号墓発掘調査現地説明資料
御津から邪馬台国へ
シンポジウム 考古学から見た邪馬台国への道のり
シンポジウム「渡来系文物からみた古墳時代の播磨」 資料集・記録集ともに品切れ
日本の歴史2 王権誕生 寺沢薫 2000/12
兵庫全史(上)
日本古典文学全集5 風土記

播磨灘周りの勢力が連合を作ることで、九州勢を超える勢力となり、邪馬台国が成立したということなのでしょうか? あるいは、考古学的な証拠はないものの、輸入に頼っていた鉄を播磨灘で製鉄可能になったのが実は邪馬台国のちょっと前くらいで、九州を越える勢力になったということでしょうか? でも、なぜ、播磨灘に留まらず、大和で新政府を作ったのか? の説明はつきませんね。

2006/11/28追記

『みのもんたの日本ミステリー4』では邪馬台国徳島説の導入部分で萩原2号墓が出てきました。また、帯方郡からの行程も合うという感じでした。あと、天皇家に儀式で使うアラタエ(麻の布)を提供してきた阿波忌部一族の末裔三木信夫さんという人が出てきました。姫路に多い三木姓とは別のはずなのですが。

2008/3/23追記

徳島の萩原2号墓の記事を見て、また新しい古墳かと思ったのですが、既出で、一般公開のニュースでした。
最近、『アダムの旅―Y染色体がたどった』を読んでいたら、現生人類がアフリカから広がる速度を1Km/年と表現してありました。九州から近畿地方まで500年かかって移動することになります。紀元前5世紀半ばから1世紀半ばまでで500年とすると、ちょっと早く到着しすぎますが、縄文系が分布している中に弥生系が広がっていくので抵抗があって少し遅くなったとか、弥生系のコア部分の移動速度は先端より遅めかも知れません。中心が、紀元前5世紀半ばから3世紀末までで九州から奈良まで移動したとして、100年前くらいが播磨に相当することになります。

『歴史から消された邪馬台国の謎』を読みかけていたのですが、帰すという漢字を、「まいむく」とも読めるそうです。本の内容とは関係ないのですが、纒向遺跡の「まきむく」と、似た音ですね。

2007/3/21追記

関連ページ

Doblog - 姫路関連のニュースのメモ -
『王権の海』の感想 分離前のページです。

外部リンク

播磨の考古学ぽーたる 邪馬台国西播磨説の発信元サイトなのかも。
徳島・萩原2号墓/三重構造の埋葬施設 「ホケノ山」の原型か ニュース 列島いにしえ探訪 文化 伝統 関西発 YOMIURI ONLINE(読売新聞) 2007/3/15の新聞記事 2007/3/21追記

作成 2004/4/27 - 更新 2008/03/23

  

Google
Web www.PAG1U.net

関連ディレクトリ

姫路ディレクトリ

都市比較ディレクトリ

通信関連

個人情報

関連サイト

読書メモ

乱雑な本棚:古代史

乱雑な本棚:日本人の遺伝子

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
seo

[HOME]  [古代史] (C) MATSUOKA , Hajime