科学論の中の占星術

科学論に引き合いにだされる占星術は、過去のものであり、未来永劫占星術が擬似科学でしかありえないことを意味しているわけではありません。一般に分野によって、その主張が正しいかどうかを判断できると考えるのは間違いです。個々に吟味するしかありません。同様に、権威ある出版社の本に書いてあったからとか、有名大学の教授が言っていたからと言って正しいと思うのも怠惰な態度です。でっちあげ

科学論関係の本を読んでいたのはかなり昔ですが、「知の欺瞞」を読んでいたらポパー、クーン、ファイヤアーベントなどの名前が出てきたので思い出して書いています。当時、僕は、彼らの本を言葉どおり受け取って相対主義者になったり、極端に反発したりはしませんでした。以下は占星術との関連に限った話で、2000/5/31に作成して、徐々に修正しています。

反証可能性

占星術というのは、科学とそうでないものを区別する方法について議論するときに必ず登場する分野です。しかし、疑似科学と言われるわりには、占星術に科学的に取り組むことは至極簡単に可能であるとしか思えません。例えばポパーの反証可能性という基準をクリアするためには、どうでも取れる主張ではなく、反証可能な定量的な仮説に限定し、多量のデータを集めて、いろいろな仮説について統計をとってみて、別のデータで再現実験すればすむ話です。まあ、手順だけ揃えることができても、同じだけの成果を生み出せなければ意味がありませんが。

データより理論、合理より信念

占星術が疑似科学の代表とされる原因は、むしろ別の事情があります。それは、人間が科学的な手順で得られた合理的な知見よりは、自分にとって好都合な結果(自分の妄想を強化するという意味だったりする場合もあるでしょうが)を好むことが多いという現実です。科学の世界で言えば、理論に食い違う実験結果が出ても、先に実験の不備を疑ったり、宇宙定数(アインシュタインの失敗)を追加したりして、パラダイムをそう簡単には捨てない傾向といえるでしょう。システム論のワインバーグは、フィードバックの第N法則と呼んでいます。(パラダイムという言葉を持ち出しましたが、クーンが占星術についてそういう観点から述べていたかどうかは覚えていません。)科学者が、理論をなかなか捨てず、占い好きな人が、統計的に意味のある占いより、信念を強化してくれる占いを好むのは、同根です。科学としての占いは可能であっても求められていなくて、そのために、占いが、疑似科学と呼ばれ続けているわけです。

ところで、そうでありながら、科学者が、占いという分野の事情に同情することなく、むしろ忌み嫌うのはなぜでしょう? 実は、科学者といえども、真実より幻想を好むユーザーの要望という現実にわりと頻繁にぶつかっているということだと思います。ケプラーにはケプラーの法則を発見して、ニュートン物理の1歩手前の物理学者としての面の他に、占星術師の側面があったはずだと思います。(記憶に基づいて書いています。)そして、ケプラー自身そのことをやや恥じていた部分がありました。それと同様に、現在の科学者も、研究予算を確保するために、遠い未来には可能かも知れないような幻想をまき散らしつつ巨額の予算を正当化しなければならないという側面があるわけです。(ダーウィンの頃はお金持ちが趣味で科学の研究をやっていたわけですが、今はなかなかそういう人はいないでしょう。)つまり、科学というものは科学だけで切り離して見ていると合理的な思考の代表の様に思えるわけですが、さらに大きな範囲で見ると、研究予算の奪い合いという政治の側面が出てきてしまいます。

科学の未来も予測不可能

また、科学を全体として見ると合理的に機能しているわけですが、個々の科学者にとっては、また別の問題があります。最初から正解が分かっているわけではないということです。当たり前のことですが、でも過激な主張をしている様に見えるファイヤアーベントが言っているのはもっとマクロな問題かもしれませんが、今日合理的と見なされている判断が、何らかのパラダイムシフト後の時代に生きる人からは、蒙昧で頑迷と見なされないとは限りません。

サンプル数が減ると誤差が増える様なもので、個々の科学者のスケールでは、同様の問題が拡大されます。個々の科学者は、どの分野に取り組むか、どの方法を選ぶか大きな賭をしています。無数の可能性の中から良さそうに思える順に試していくしかないわけです。フェルマーの法則の証明のために10年あまり考え続けた数学者はすごいと思いますが、彼がもし交通事故にあって途中で死んでいたら何にもならないわけです。あるいは、20年考え続けてもう一歩まで来ていた別の人がいたかも知れませんが、追い越された人は何にもならないわけです。アインシュタインは晩年20年くらいかけて大統一場理論とか作れなかったわけですし。個々の科学者は、実は人生を賭けた大きな賭をしているはずです。日本にはノーベル賞受賞者も少なくて、翻訳していれば済んだぬるま湯分野もあったでしょうから、賭という風には見えないかも知れませんし、結果が出るのに時間がかかるので、賭に見えないかもしれませんが。そして、無駄に終わってしまったときには、たまたま成績が良かったからすでに成長の終わりつつある分野に入り込んでしまったとか、ろくでもない指導教官が変なテーマを割り振ってそのせいでそれ以降惰力で人生を棒に振ってしまったとかいろいろ反省することになるでしょう。

例えば、狩猟の際に、獲物に行動パタンを読まれないようにランダムに行動するために占いが有益だったというのがありますが、それに限らず、賭のある状況で、確率を高める努力というのは、合理性があるはずですが、科学者が科学者社会全体と一個人としての科学者を同一視しているからか、あるいは、前に言ったように、たとえ、不利なレースに参加してしまったことが後でわかっても、今更あとに引けないので、そういう情報は捨てるしかないという事情があるのだと思います。

2004/01/26更新

 (C)MATSUOKA , Hajime

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